春とメルセデス・ベンツ

街のデパート等の建物には、
必ずエスカレーターがあるが、
その付近にもまた必ずと言って良いほど
ベンチがある。
それほどにありふれたベンチは、
特に何かを主張するわけでもなく
ただ日常の景色の一つとして溶けている。

しかし、私の自宅の側にあるデパートの
ベンチだけは少しだけ違っており、
いわゆる"地元民の間では有名"な
ものの一つになっている。
何故ならまず、そのベンチは完全な木製という、
デパートのベンチとしてはやや珍しいもので、
しかもメルセデス・ベンツのロゴと
全く同じ模様の木目があるのだ。

勘の良い方ならもう分かるかもしれないが、
その木製のベンチは

"メルセデス・ベンチ"
と呼ばれている。

何ともくだらないが、まるで高級車かのような
なんとも上品な座り心地なので
案外馬鹿にできない。
そこに座りながら、ある人は急足で、
ある人は大きな袋を抱え、通り過ぎていくのを
眺めるのが、私は好きだ。


ある日、一足早い休暇を得て、
丸一日予定のない私は、
暇つぶしに散歩をしに行く事にした。

澄んだ空と肩を並べるように
頭上を埋める桜の蕾を見上げると、
分厚い服を何重にも着て、
白い息を吐いていたのが
もう遥か昔であるような気さえした。
穏やかな陽気にあてられ、
流離の旅人にでもなったような、
本当の自由を手にしたような、そんな気がした。

実際時間には余裕があったので
多少の買い物を済ませ、
ついでにメルセデス・ベンチに座った。
時間と、人々が流れていく。
普段目まぐるしく見えているものでも
ここから眺めていると、ゆったりとして見える。
なんだか、普段の生活が恐ろしく
窮屈な気がして
たまらなくなってしまった。

ふと、その憂鬱を打ち消すかのような、
朗らかな声が聞こえた。
目をやると、その小さな声の主は
祖母の手を引き、不安など何もない
という表情で歩いている。
少し困りながらも、孫の健康を喜ぶ祖母の
表情もまた、何とも優しかった。
微笑ましく美しい光景である。
僥倖に巡り合ったような気がした。

少年は「おばあちゃん!きょうからちがつ!」
と辿々しくもしきりに話している。

すぐにそれを"今日から四月"と頭の中で
変換した私は、
彼にとってはまだ
四〜五回目の春なのだろうか、
彼の持つ心を私が忘れたのは
一体何度目の春だったのだろうか、
と、取るに足らない思考を巡らせていた。

突然、内臓を掴んで揺らすほどの
轟音が鳴り響いた。
私が座っていたはずのメルセデス・ベンチは
メルセデス・ベンツへと変貌しており、
エンジンがかかっていたのだ。
あまりに突然のトランスフォームに
私は言葉を失った。

抜け殻のようになった私を乗せたまま
車は市街地を走り出した。

メルセデス・ベンツといえば
世界的に有名な高級車である。

ようやく状況を整理し、
少年の放った「きょうからちがつ!」の
「ちがつ!」の影響で"チ" が "ツ"になり
メルセデス・ベンチがメルセデス・ベンツ
変わったと理解する頃には、その高級車は
もう既に私を遥か遠くの
知らない街へと運んでいた。

 

今日から4月というのは4月1日。
つまりこの話はそういうことですね。